ベイエリアの歴史(21) – マイクロウェーブ・バレーの軍事技術

ドイツのレーダーの恐怖とブルーベリー伝説 さて次はいよいよショックレー・・と思った方、ザンネンでした。昨日の記事に関連する情報をいただき、面白かったので、ちょっと時間を前に戻して書いてみます。

第二次世界大戦前後、「シリコンバレー」となる前のベイエリアで、技術開発を支えたのは軍需産業であった、ということはお話しましたが、これまで私の読んだ資料の中には、その「軍事技術」についてあまり詳しく書いたものがなく、よくわかりませんでした。そのあたりには、どうやらこんな話があったようです。

アメリカは日本の攻撃を受けて1941年に第二次世界大戦に参戦しましたが、欧州ではその2年前からドイツが周辺諸国に侵攻して、イギリスがこれと戦っていました。しかしその2年の間、イギリスは欧州大陸に上陸することができずにいました。そこで、イギリスは新たに参戦したアメリカと相談して、太平洋よりも欧州戦線をまず優先し、空爆することを決定しました。(まー、だから緒戦は日本が勝てた、というわけなんでしょうね・・・)

イギリスは夜間に絨毯爆撃、アメリカは昼間にピンポイント爆撃、という分担でやろうということになりましたが、その攻撃はドイツの強力な早期警戒レーダーの網に阻まれてしまいます。ドイツでは、占領下のフランス・ベルギー・オランダから北ドイツにかけて、レーダーと地対空砲を緻密に設置し、イギリス・北海方面から飛来する米英の戦闘機を検知して撃墜していました。ヨーロッパの北部では、曇って視界の悪い日が多く、飛行機にとっては圧倒的に不利でした。

このため、両軍合わせて4万機の飛行機が撃墜され、両軍それぞれ8万人近い兵士が死傷または捕虜となりました。

連合軍側は、これに対抗するための空対地レーダーを開発し、1943年から飛行機に搭載されるようになります。しかし、それでも飛行機による爆撃は危険なミッションで、一回の攻撃で4~20%のパイロットが失われました。そして、パイロット一人につき従軍中25回出撃していたので、パイロットが生還できる確率は非常に低かったのです。

なお全くの余談ですが、このときイギリスでは、空対地レーダーの存在を隠すために、「我が軍には夜でも目がよく見える兵士が多いから、夜間でも正確に爆撃できるのだ、なぜならイギリスではブルーベリーをたくさん食べるのであるが、このブルーベリーが目に良いからである」というデマを流しました。そのデマが、現在に至るも「ブルーベリーは目によい」という都市伝説となっている、という話を読んだことがあります。

 

アルミホイルの雨が降る

パイロットの生還率を高めるためには、ドイツ軍のレーダー・システムを解析し、これを撹乱する仕組みがどうしても必要となりました。そこで、ハーバード大に秘密の無線研究所、Harvard Research Lab (RRL)が設立されたのです。MIT Radiation Labを分離した800人の組織で、そのトップとして招かれたのが、前回登場したスタンフォード大のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは学部はスタンフォードでしたが、大学院はMITというつながりがありました。

RRLでは、スパイ飛行機をドイツに飛ばして無線を傍受して解析し、レーダー妨害機を開発して連合軍の飛行機に搭載しました。また、ドイツのレーダー撹乱のために「アルミホイル」(そう、料理に使うアレ)の厚みがちょうどよいとの研究結果により、レーダー範囲に飛ばした飛行機から兵士が素手でアルミホイルをばらまくという作戦も1943年から行われました。日本ではお寺の鐘などを供出していた頃、アメリカでは全米のアルミホイルの3/4がこの作戦のためにかき集められたそうです。

そういうわけで無線の研究は軍事目的のためにとても重要で、軍の研究予算がMITやハーバードには1億ドルとか3000万ドルとかの単位で拠出されていたのに、スタンフォードにはなんと5万ドルぽっきりでした。この頃、いかにスタンフォードの存在が小さかったかがよくわかります。「なにくそっ、いつの日か、スタンフォードをMITやハーバードと肩を並べる大学にしてやるぞっ!」と、ターマン教授が夜空を見上げて、拳を固めて涙ぐんでいる図が思わず頭に浮かんでしまいます。

その志を胸に、戦後スタンフォードに戻ったターマン教授は、次の戦争に向けた軍事研究に備え、前回書いたような大学改革に着手し、自分の人脈を使って無線の研究者をゲットしていきます。1950年には朝鮮戦争が起こり、それを機にスタンフォードは初めて、本格的な官学共同研究パートナーとなります。引き続く冷戦では、ソ連の「核の真珠湾」を防ぐための防衛システムが重要となり、スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の研究パートナーの中心的役割を果たすことになり、軍の予算も飛躍的に増加します。

こうした流れのため、この時期のスタンフォードの軍事研究は、主にレーダー・無線の技術、そしてそれに伴う電子工学の基礎研究でありました。その研究成果をもとに、ヴァリアン・アソシエーツやロッキードが軍事機器を製造しており、近くて便利なスタンフォード・インダストリー・パークに入居したというわけだったのです。というわけで、50年代あたりには、この辺一帯はシリコンバレーではなく、「マイクロウェーブ・バレー」であったのだそうです。

<続く>

出典: GIGAZINE